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物事は終わり、そして始まる

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確かに世界は何かが終わり、そして何かが始まろうとしています。この世界には、すべての物事にサイクルがあります。何かが終わるときが必然的にやって来て、終わりが来たからこそ新しい何かが始まります。

新しい何かは、常に新しい変化を作りだします。
終わることは、人間にとっては恐ろしくもあり、悲しくもある出来事です。良いものがどんどん壊されていくように思え、過去の『麗しい』世界の美しさと豊かさばかりに目を向け、ノスタルジーという感情に浸ろうとします。
しかし、終わりが無く、新たなことが何一つ生み出されることが無い世界ならば、変わり様の無い混沌とした世界が永遠に続くことになります。

世界の重要なことが何一つ変わらないままに困難だけが降りかかり、その現実に閉じ込められ、翻弄されているように感じていたとしても、実際には世界は歩みを進めています。
自分自身を含めた存在のそれぞれが少しずつ状況を受け取り、変化し、前へ進んでいます。あるとき、気づけば大きな変化が起きているのだろうと思います。


それとも、もしかしたら、人間の判断力に疑問を感じているのでしょうか?
人間の悪と醜さにうんざりしていて、「そんな人間がまともな方向になど、進めやしない」と思っているのでしょうか?

これは、人間のテーマですね。

ひとくくりにしている『人間』には、自分も含まれます。もし、人間の性質に疑いを持っているのなら、自分自身の本当の状態をとことんまで調べてみればよいと思います。表面的に表れている「分かっていないこと」「出来ていないこと」「駄目なこと」に目を向けるのではなく、本質の中にある思いと願い ―意識― を探ってみれば良いと思います。

人間とは本当に、それほど酷い存在なのでしょうか。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


新しい光が降りてくる時代が、本当にやって来ました。ソウルとしての私たちは、この時を待ち続け、そこに向かって一歩一歩、歩みを進めてきたのだろうと思います。長年にわたる、パイシス時代の苦難と犠牲に特化した『時』が、本格的な終わりに向けて歩みを進めています。

しかし、まだ新時代に完全に移行できたわけではありません。
ですから、新たな時代に向かっての絶え間ない変化の波がこれからも続くのでしょう。

どこに向かうのか、その先に何が待っているのかも定かでは無い、嵐のとき。
しかし、魂としての自分の内面を見つめたとき、「ようやくここにたどり着いたのだ」という深い感慨が存在していることに気づきます。
アクエリアス時代に向かって、出発できる時がようやく来たのだろうと思っています。


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確かに、降りてきた光 ―地上に差し込んできた輝かしい光― は、一時的に影を濃く映し出します。ぼんやりとした光の元では見えなかった、様々なものの不調和の輪郭、色、形が具体的な『物』となって目立つようになります
光が差し込むことで、私たちはその存在に気づくようになります。そして、それに対処しようとします。
しかし、それはこれまでには見えていなかったもの・・・存在することすら知らずにいたものです。どのように対処すれば良いのか 誰も明確には分かっておらず、そのため迷いや混乱が広がります。

それでも、いずれは物事の具体的なことがもっと明確に判るようになるのでしょう。そして、どのように対処すれば良いのかが理解され、その方法が浸透し、新しい秩序と調和が作られていくのだろうと思います。

その過程の中で、もし自分に何か貢献できることがあるとするのならば、何が起きているのかを深く、しかし広く明晰に見ようと試み、その都度適切と思えることを『やってみる』だけなのだろうと思っています。


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この世界は・・・と言うより、人間の思考システムでは、物事は極端な二方向へ向かう動きを作りだします。二元性、二極性というものです。良い物事も、「実際に良い方向に向かう動き」と「悪いと思える結果を生み出しそうな動き」の2つを作りだすということです。

問題が起きたとき、圧倒的に焦点を当てられるのは常に「悪いと思える結果を生み出しそうな動き」の方です。何故なら、良い情報や良い知らせは、知らずにいたとしてもさほどのデメリットは生まれないからです。
しかし、「悪いと思える結果を生み出しそうな動き」の方はそうはいきません。知らずにいたら(もしくは『知らせずにいたら』)、デメリットが大きくなるのではないかという無意識の認識が働くからです。

この認識は、現実論として必要な場合もあります。しかし、恐れから派生した不要な認識の場合も、数多くあります。

いずれにしても、どれもが何らかの形で必要な情報ではあるのでしょう。ただ、その情報がどのような認識から発せられたものなのかについては、冷静に、理性的に判断する必要があります。


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二極性を現実ととらえるのならば、実は「悪いと思える結果を生み出しそうな動き」にもまた、「実際に良い方向に向かう動き」の要素が含まれていることになります。
その事実(物事には、必ず両極が含まれるという現実)にも焦点を当て、その両極の、良いと思われるものにも気づき、取り入れ、その方向に向かって行動することも重要になってくるのだろうと思っています。


二方向の流れをキャッチできるのか・・・(実際には、世界は多次元的になりつつあるので、二方向だけではなく、様々な方向に流れることになるのでしょうけれど。)
そして、その光を自分の周囲の身近な世界で、自らが体現し、広げていくことができるのか・・・

そういうことが問われているのだろうと思っています。

そして、それは、小さなことならば誰しもが実行できることなのだろうと思っています。それぞれが身近な、小さなことに取り組んで、小さな変化を積み重ねていけば、それで十分なのだろうとも思います。
その小さなことが積み重なって、あるとき大きな変化が起こるのだろうと思っています。


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世界に、大きな光が降りてきていることは確かです。役目を果たし終えた時代がこの世界を離れようとしていて、それと同時に新たな時代が降り、誕生しようとしています
その動きのスピードを上げるための、予測外の大きな力が働いていることも事実です。そして、それが思わぬ大きな影響を作り上げていることも事実です。
しかし それは、より良い世界に向かうための必然的な流れでもあります。

私たちはそれを拒否し、邪魔することもできます。
それを認め、その流れに乗り、貢献することもできます。

その道筋は調整、調整、調整の連続になるかもしれませんが、魂レベルでの私たちにとっては、それは毎度のことでもあるのでしょう。


最初から決まった正解など何一つありません。
一つの動きは、物事を多方面に広げていきます。仮に失敗したように思っても、その動きが悪い方向だけに広がることは実際にはあり得ないことです。
その失敗したように思える何かもまた、思わぬ形で「良い何か」を生み出すことになります。

それもまた、現実です。
悪いことばかりが、現実というわけでは無いのです。




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メモ書き、自分への覚書として

起こった出来事、起こっている事象や現象、自分の周りに存在する人物。
それらのものが自分にとって都合の悪いものであったり、自分の人生の足を引っ張るように感じた場合、それは問題となる。

しかし、問題に思える物事は、自分が良い方向に向かうための機会(チャンス)であることも事実。


厄介なのが、この「良い方向」という奴で、それを自分本位の良い方向ととらえてしまうと、すぐさま反射的に「排除すればいい」とか「攻撃すればいい」となる。
ただ、仮にそれらを排除しても、攻撃してやっつけても、自分の志向性が変わらない限り、また同じような場面や人に『出会ってしまったり(すなわち自ら飛び込んでいったり)』、『引き寄せてしまったり(或いは、自らそういう場面を作りだしたり)』ということが起こる。

これもまた、変えがたい現実の一つ。


プラス、似たような問題というのは、この世界には山ほどあるわけで。
対処の仕方が今までと何も変わらないのなら、未来の『今と似たような問題』も、『今と似たような重大な問題』となって帰ってくることになることは必然。
結果的に、悪循環が何度も何度も繰り返されることとなり、その度に自分の気持ちはどんどん頑なになり、状況を更に頑固で確定的なものにしてしまうことになる。


そして起こる、避けがたいビックバン。

ビックバンもまた良い方向に向かうための機会であり、チャンスなわけだが、毎回のようにそこまで行きつく必要性があるのか・・・と思う。



そこで、『では、良い方向とは何なのか』ということに戻るわけだが、これはつまり『自分が成長できる』ということなのだろうと改めて理解する。成長、成長、成長と何歳になっても、どれだけ経験を積んでも求められるわけで、確かにうんざりすることだけれども、「すんなり認めれば良いだけのこと、なんだよな」とも思う。
その事象、その出来事、その人物の本質をそのままに見つめ、純粋かつ理性的にとらえて理解し、その本質が自分に対して提示している「自分の成長課題は何か」と考え、それに取り組むことを決断すれば、実は、半分以上課題は終わったも同然なのだと思う。

他者ではない、外部の事象でもない、全て自分、自分、自分。


その際、絶対的に必要なのは、「必ず良い方向に、ポジティブな方向に向かうのだ」という信頼(信じ、定める気持ち)と、全体にとってプラスになるという方向性なのだろうと思う。

 それは、ネガティブな方向性をあえて目指す必要性は無いからで。

 そして、物事は、自分本位では決してうまく進まないからで。
 これは道徳などを超えた原理原則であり、宇宙の法則であり、必然的にそうなるという事実でもある。


ただ、判断が難しいのは、何がポジティブで、何がネガティブなのかということ。
そして、何が自分本位で、何が全体にとってプラスなことなのかということ。

ここには、自分の様々な経験における、様々な固定観念が入り込み、複雑化していたり、勘違いしているものが多々含まれている。

だから、自分の判断が正しいかどうかなんてことはいつになっても分からないわけで、結果的に、容易には良い方向に向かえない・・・ということになる。


だからこそ、起きることのすべてを成長課題であり、どこまでも続く道ととらえるしかないわけだけど、そのこと自体をネガティブにとらえるのか、ポジティブにとらえるのかというだけの差なのかもしれない。






接続先を変える

桜
先日の桜 ― 桜もそろそろ終わり、季節は次へ


少し前に何かの記事で書いた 18歳の青年と、再び会う機会がありました。彼は定時制に通う高校生なのですが、「最近はどうなの?」と聞くと、「コロナの関係でバイトもできないし、今は大丈夫だけれど将来が不安だ(経済的に)」とのこと。

彼は家の事情もあり、自分で学費などを稼ぐ必要があります。
そのバイト先とは美味しい鉄板焼のお店で、コロナ前は連日大忙しだったのだそうです。ところが、ここ1ヶ月の間に徐々に客足は減り始め、彼もだんだんとバイトに入れなくなっていきました。

今、そのお店は閉店も検討しはじめているのだそうです。そのことも、彼には響いたのかもしれません。

彼本人は周りがどうであろうと、自分の状況がどうであろうと、やるべきことを明るく、前向きにやることのできる人です。あるとき、何かのことで、「でも、大変でしょう?」と言ったら、「いや、僕は楽しいんだよ。自分で色んな事をやっていけるということが、本当に楽しいんだ」と言われ、「ああそうか、馬鹿なことを言ってしまったな。何事も “大変” なんかじゃ無いんだよな、本当は」と思ったことがありました。


かと言って、単なる夢追い人というわけでも無く、徹底したリアリストでもあります。
彼の自分自身に対する、もしくは社会に対する鋭い洞察を聞くたびに、「なるほど、年齢など関係ないな。すごい人間は、幾つだろうとすごいな」と感心するばかりだったのですが、その彼も、今の状態を受け、内心では様々なことを思っているようです。

リアリストでありつつも、感受性の鋭い青年なのです。


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「そっか・・・。友達とかとは、どうなの? 会って、そういう話とかしてるの? 本音語ったりしあえば、多少は気分転換になるかもしれないし」と言うと、「会いたいんだけど、学校も休みだしね。それに今、高校生とか若い人が外でウロウロしてると、バッシングがすごいから」とのこと。

「バッシングって、具体的に誰からなの?」
「誰からってわけじゃないけど、SNSとかで」

「でも、公園とかで集まって話したり、遊んだりぐらいなら大丈夫でしょう?」
「う~ん。どうだろう、やっぱり叩かれるんじゃないかな。」

「ん? でも、子供たちとか家族連れとか、公園で楽しそうに遊んでるよ。マスクして、適切な距離を保って公園でお話するぐらいなら、大丈夫じゃないかな?」
「でも、高校生に対しては違うみたいなんだよね」
「え、良く分からないんだけど、なんで高校生だけ駄目なの?」
「とにかく、そういう感じなんだよ」

要するにです。「彼のSNS」では出歩いている高校生を叩くような動きがあるのだそうです。でも、「私のSNS」では、今までそういう発言に出会ったことはありません。どの人もみな、共感力のある方ばかりです。なので、「どうなのかね、そんな風に思わない人もたくさんいると思うよ。私も高校生の人たちが公園で談笑してたら、むしろ和むだろうしね。」と答えました。

彼が日ごろ見ているSNS、それがどういう物かは分かりませんが、そこではそういうバッシングの情報が飛び交っているのでしょう。でも、そうでない人もいます。

まあ、彼の現在の階層においては、私のような人間は存在しないも同然なのでしょう(笑)。
実在の人間としてはカウントされない、ということです。
仮にカウントされたとしても、それはターゲット外の世界の出来事というか・・・自分とは関係の無い世界の出来事であり、実態の無い数字に過ぎないのでしょう。

たぶん、そんな感じなのだろうと思います。

さすがの彼も少しナーバスになっているのかもしれません。
私も含め、全員がそうなのだろうと思いますが。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


接続先を変えるなどというと、「チャネリング先を変える(例えば エルモリヤからメタトロンへ、のような)」みたいな小難しいことを思い浮かべがちですが、そうではなく。
単に自分の行動範囲や交友関係を少し変えてみたり、見るもの、聞くもの、読むものを変えて、そこに存在する事実も事実として認めるだけの話だったりします。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


さて、こんな風に書いている私も、最近、似たようなことをやらかしたばかりです。
実はトイレットペーパーの話なのですが、私のよく行く店では未だに、トイレットペーパーが売られていなかったのです。前回は運良く手にできたのですが、今回は訪れるたびに在庫ゼロの状態に出くわしてばかり。その都度「まあ、なんとかなるでしょう」とのんびり構えてきたのですが、いよいよ在庫2個という段階で、焦りを感じるようになりました。

そこで、そのことを知人に話したところ、「え、売られてないなんて、そんなはず無いでしょう。○○○では普通に売ってたけど」とのお返事。

次の日、そのお店に行ったところ、確かに売られていました。日頃私が買っているような安価なタイプのものではなく、ピンク色の上質な紙の、アロマの香りのついたトイレットペーパーでしたが、確かに存在していました。つまり、私はトイレットペーパーの販売されていない階層をウロウロしつづけていたということです。そして、一人で「さあ、どうしようか」と焦り、不安に襲われていたということです。

知人は少しも困ることなく、ごく普通に生活していたにもかかわらず、です。

その時ようやく、「なるほど、あの時の彼が陥っていた状態がこれか」と本当に実感できたわけですが、そういうこと ありますね。

事がトイレットペーパーなので単なる笑い話、ちょっとした失敗談で終わるのですが、大きければ、厄介な問題になることもあります。
知らず知らずに不可思議な、限定的な階層に迷い込み、それが世界の全てなのだと思い込んでしまうこともあるということです。




植物界の存在たち

つつじ
外では光と色と風が踊っています。夜は季節外れの寒さが続いていますが、そのお陰で桜もまだ残っています。一方、既に藤の花やつつじも咲いています。今年の春は例年以上に華やかです。

シベリア方面はまだ寒いのでしょう。冬鳥のキンクロハジロという鳥も まだ日本に残っています。やんちゃな目つきで、頭の後ろに一筋の羽を伸ばした 小さなカモの仲間ですが、普段なら もう旅立っているはず。

一方、燕たちは、既に南の国から飛来しています。
盛んに飛び回っては電線などにとまり、「グチュグチュ ピチュピチュ トゥルルルル」と囀っています。


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赤色は第一チャクラの色であり、生命力や強さの象徴の色でもあります。弱まると、大地とのつながりが失われ、今ここに存在することが難しくなります。現実から離れて架空の世界に住むようになり、周囲の世界とのギャップを強く感じるようになることもあります。人間が生きるために必要な安全・安心の感覚や、信頼の気持ちが弱まり、周囲の世界に過剰な恐怖感を抱くようになることもあります。

例えば「地球に馴染めない」などの感覚も、第一チャクラ(或いは、その下のアーススターチャクラ)などの基盤のチャクラが弱まっているために起きているケースが多いようです。


その一方で、赤色が過剰になりすぎると、その力が闘いの方向に向かってしまうこともあります。

闘いの気持ちも必要なものです。危機の際、人間は闘いの気持ちを鼓舞することで、自らの生命力を増強させ、苦難を乗り越えようとします。また、善のための闘い、というものもありますね。善を獲得するためには、戦いもやむを得ないという感覚。そういう「確かに、やむを得ないなあ」と思う実例が、歴史の中には多々存在しています。

ただ、闘いの怖いところは、そこに従事している間に闘いが目的になってしまうことだろうと思います。最初は善の為であり、善に沿ったものであったとしても、です。高い領域、善の領域から働きかけているつもりでも、時と共に闘いその物のエネルギーの影響を受けてしまうようになるのかもしれません。知らず知らず、その領域に同化してしまうことがあります。

善のために悪と思う存在と闘っているはずなのに、気づけば、自分自身がその悪と同じような存在になってしまっている・・・
いつの間にか、自らの敵と同じような思考にはまり、同じような行動をとってしまっている・・・
そんなことの実例も、歴史の中には山ほど転がっています。

でも、その闘いのお陰で(きっかけで)、世界が良い方向に変わっっていった実例も多くあります。

何が善で、何が悪か。
何が正しくて、何が間違っているのか。
その判断は、なかなか難しいものですね。

これらの判断の全てにもまた、人間の固定観念が数多く含まれているのだろうと思います。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


自らの生命力を高め、モチベーションを作り出し、行動へと向かうために闘いの感情を利用すること。

私自身がやってしまいがちなことですが、たぶん闘いの感情を利用せずとも、生命力を高めたり、モチベーションを作りだしたり、行動を起こすことはできるはず・・・なのですよね。
具体的な手法を提示することはできませんが、その方法も確実にあるはずなのです。人間の意識は加速度的に変化しています。気づけば それが普通にできている時代と、自分が存在しているのでしょう。


ふと、「植物界は既に そのレベルに到達しているのかもしれないなあ」と思いました。

彼らも彼らで防衛し、環境と戦っているという話を何かで読んだことがあります。その戦いは想像以上に戦略的なもので感心した記憶があるのですが、実際には、彼らの中に「戦う」という意識は無いのだろうと思います。むしろ、適応に近いように思っていて、単に周囲の環境変化に合わせて自らの意識を拡大し、自分自身をひたすら変化させ続けているだけなのでしょう。

結果として、彼らは美しい花を咲かせては世界に美をもたらしつづけています。
彼らの手足となって働く昆虫界を維持しては、美味しく滋養に満ちた果実を作り出し、人間界や動物界をも維持し続けています。
そうやって 地球全体を維持し続けているわけですが、維持すると同時に、時には動物や人間、地球全体を利用するだけのたくましさも持ち合わせています。

失礼、「利用」なんて意識は無いでしょうね。感情で表すならば 寄り添うとかそういう感覚の方が強いと思うのですが、何はともかく 植物界の存在たちの叡智には驚かされます。


今年の春の華やかさ。
人間界の状況を受け、エールを送るための・・・そして、地球全体を維持するための植物界の戦略の1つなのかもしれません。闘い方は様々だよ、ということを伝えたいのかもしれないと思っています。




Libra

libra
今日は天秤座の満月でした。天秤座は牡羊座の対局にある星座です。
バランス、調和、穏やかさという印象。

正義というキーワードもあります。
ただ、天秤座の正義には、正義と聞いて思い浮かべがちな糾弾的な要素は無く、バランスがとれることによって自然と生まれる調和の状態という感じがあります。天秤座は美とも関係の深い星座ですが、美そのものも調和から生まれるものなのでしょう。

個人的な印象としては、天秤座と聞くと6角形が思い浮かびます。自然界には6角形の形をしたものが多く、例えば亀の模様やハチの巣などもそうです。雪の結晶なども、6角形。自然に作られやすい形であると同時に、たぶん、地球の物理条件において安定しやすい形でもあるのでしょう。

そして、カラーでは緑から青の色合いが思い浮かびます。透明感のある軽やかな青や緑。
どういうわけか、それらの色に、クンツァイトやモルガナイトなどの軽やかな淡いピンクが組み合わさっているような感じがあります。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

今回の満月は、どうやらスーパムーンでもあるようですね。
今のところ、こちらの地域は薄曇りといった感じです。

夜はどうでしょうか。晴れたら満月でも見物しに、散歩にでも出て見ましょうか。